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Therion バイオグラフィ 1987 ~ 2005 

バンド結成

Therionは、Christofer Johnsson によって Blitzkreig という名前で1987年に Upplands Vasby(ストックホルム北部郊外)で結成された。Chris はその当時はベースとボーカルを担当しており、ラインアップは、ドラムのOskar Forss とギターのPeter Hansson で構成された。 Peter とChris はその年の初めに他のグループで(バンドというよりもジャムっていただけと言った方が正しいが)、一緒に活動しており、Chris は Blitzkrieg が現実のものとなる以前から色々な人々と共に何かをしていた。Oskar は古くからの学校での友人であった。

Blitzkrieg には Slayer と Metallica などの昔の作品からの影響を受けていたが、サウンド自体は Venom と Motorhead に近かった。1988年はじめにバンドが解散するまで、デモは製作されず、2回ギグを行ったのみなので、多くの人に知られることはなかった。しかし、Chris はバンドの構想を諦めることはなかった。二、三ヶ月後にはギターに転向し、Celtic Frost のようなバンドの影響を受け始める。そして Peter とともに Megatherion という名前でバンドを再結成する。 その後すぐに Oskar も戻り、バンドのオリジナルラインアップが再びそろった。 しかし、新しいバンド名とデスメタル傾向のサウンドでだ。それからしばらくして、彼らの初めてのレコーディングに登場するベーシストが見つかった。ストックホルム地域の若きデスメタルバンド Dismember を脱退したばかりの Erik Gustafsson である。 バンドの名前が Therion に変えられた直後のことであった。

このラインアップで、バンドは2つのデモを製作した。(最初のものは、Chris がギターに専念したかったので、後の Dismember のヴォーカル Matti Karki が短期の試みとして参加した) 一枚はミニLPでもう一枚はバンドがアンダーグラウンドで最も有望なデスメタルバンドとして認識されるようになったフルレンスのLP/CDである。

レコーディングアーティストとしての初期

1990年にリリースされた "Time Shall Tell" はレコード盤のみで、地元のレコード店で1,000枚発売された。実はこれは、カセットの代わりにレコート盤として製作された第3のデモであったが、バンドがレーベルから注目されるのには十分なもので、Deaf Records とアルバム1枚の契約をすることになった。 この結果が1991年にリリースされたデビューアルバム "Of Darkness " である。 このアルバムは80年代に Chris によって書かれた曲のコンピレーションである。 バンドは新しい曲を書いていたが、それを次のリリース用に取っておこうと決めたからだ。 なので、これはバンドのデビューアルバムと共に一つの時代に終わりをつげるものでもあった。

"Of Darkness" のサウンドは、当時は正統とはみなされなかった特定の影響を受けたプログレッシブデスメタルである。 歌詞はNuclear Assault と Napalm Death など80年代後期に知られていたバンドのように政治的なものであった。特に Celtic Frosts の"Into the Pandemonium" からの影響は強く、Chris はバンドをデスメタルの範囲外へ方向づけたかったのだが、その当時は5年後どうなっているかなどは夢にも思わなかったのである。 "Of Darkness" ではキーボードをサウンドに取り込むなどの小さな試みが行われた。これに女性のボーカルと男性のクリアボイスが採用されたのが大きな変化の一つである。 この新しいサウンドの代表的な曲は非常に高い評価を受け、後のライブでも時折演奏される"Symphony of the dead" である。 Deaf Records との契約はアルバム一枚のみであり、バンドとレーベルの関係が決して良いものでもなかったので、Therion は Active Records と契約することになった。

レコーディングが始まる前に、ベースの Erik がバンドを去る(彼の祖国アメリカへ帰国)。Therion は2ndアルバム"Beyond Sanctorum"(1992)を Peter と Chris がベースを補うトリオとして製作することにした。そして叙情詩的だったコンセプトはその方向をオカルトへと変えたのだ。 このアルバムは非常に良いレビューを受け、バンドは初めてのギグをベルギーやオランダなどを中心とした、ヨーロッパでオフォーされる。 その頃2人目の子供が生まれることになった Oskar は、安い給料のミュージシャンでいることよりも、家族の大黒柱としての責任を選択することになる。一方 Peter も健康上と音楽的な理由でバンドを辞めることになった。その為、ショーは、ドラムに Piotr Wawrzeniuk (彼は Chris の別プロジェクトバンド Carbonized の仲間である)、ベースに Andreas Wahl、ギターに Magnus Barthelsson (Chris の学生時代の友人で、Upplands Vasby の別バンドで活動していた)を迎えた新しいラインアップで行われた。

奔放な実験時代

結成当初からのバンドの仲間が去った後、Chris は Therion の名前でバンドを続けていくか確信がもてなくなった。 特に、彼が音楽的な実験を経験し、もっとそれ以上のものを求めていたからだ。既に、何故バンドが革新的で新しいアイディアである "Beyond Sanctorum"をリリースする際に、名前を変えなかったのか尋ねる人も一部にいた。もしバンドが再び大きなステップを踏み、それが今回よりも大きいものだったら人々は何て言うだろうか? Chris は彼が依然としてメインソングライターであり、最初の二枚のアルバムからの曲を演奏し続けるということで、バンドの名前をそのまま保つことに決めた。名前を変えることは実用的でなかったからだ。 メンバーが集められ、非常に実験的なアルバムが作られた。

1993年リリースの "Symphony Masses: Ho Drakon Ho Megas" はその努力の結果である。このアルバムがデスメタルバンドとして分類されているバンドにとって、どんなにワイルドなものだったかを理解するには、当時、またはそれ以前にリリースされた何十枚物の他のデスメタルアルバムを聞く必要があるだろう。 前回のアルバムでは、ほんの少しの試みであったキーボードとペルシャ音楽の導入が、ここでは大胆に行われ、更にジャズ的な要素、インダストリアルミュージックや宗教的な旋律(今で言うゴシック)と Iron Maiden やJudas Priest などの80年代のへヴィメタルサウンドが用いられた。 Active Records は Therion の活動を縮小することにし、次のアルバムのリリースもなかった。その為Therion は新しいレーベル Megarock Records へ移籍する。 レビューはたいてい良いものであったが、何人かのミュージックジャーナリストはバンドの行っていることに興味を失いはじめていた。

Therion はドイツで GraveとMassacar のサポートアクトとして、ツアーに参加、またいくらかの単独公演を行うなどしてアルバムのプロモーションを行った。この時点で、非常にコアなTherion ファンを生み出していたが、セールスは良いとはいえず、Therion はアンダーグランドのエクストリーム音楽バンドとして知られるようになった。 やることはいっぱいあるのに予算がない。自宅で仕事をすることによって、生活費を賄うことはよくある事だが、ツアーに出るために仕事をある期間休まざるをえないことが Magnus と Andreas がTherion を諦める原因となった。Fredrik Isaksson がベースとして加わり、Therion は3人となった。 Chris は数ヶ月のオフを取り、スイスのバンド Messiah にボーカルとして参加した。戻ってみると、Nuclear Blast からの契約話がきていた。Megarock Record sはTherion に対し、できることは全て行い、個人的な関係も良かったがバンドを十分にプロモーションする資金が不足していた。その為、彼らは音楽業界では通常ありえないことをした。契約がまだ残っているに関わらず、いかなる金銭的権利を主張することなくTherion を手放したのである。彼らはバンドにとっての最善の結果を望み、Nclear Blast との契約を勧めた。(将来バンドが巨額な予算を必要とするのに気がついたのかもしれない)

"Lepaca Kliffoth"(1995)はソプラノとバス-バリトン歌手、さらなるキーボードとペルシャ音楽の影響および "Symphony Masses" で Chris が試みた実験的なボーカルを取り入れた、もう一歩踏み出したアルバムである。このアルバムは完全に新しい歌い方(ハードコアに近いともいわれる)を用い、彼らの元々のスタイルであるデスメタルの残存を拭い去る。タイトルトラックにみられるような、分類するのも難しい影響も若干あった。Therion は音楽的な状況が窮屈になり始めた。

Chris はインスピレーションを Klaatu, Pavlov’s Dog, Eloy, Pink Floyd, Mandala Band などの70年代のプログレッシブバンドやシンフォニックバンドに求めるようになった。 Annihilator とのツアーがドイツで行われ、何公演かのヘッドライナーツアーがアルゼンチンとチリで行われた(Chris の友人である Tommy がセカンドギターとして参加した)。Fredrik は個人的な理由で Annihilator とのツアーに参加することができず、Entombed から Lars Rosenberg がセッションベーシストとして参加した。最後にはPiotr が Fredrik との個人的な問題を打ち明け、Chris はFredrik を解雇することに同意した。Lars はちょうど Entombed を解雇されたところだったので、正式メンバーとしてTherion に参加することになった。

バンドは訪れる大成功へ向かい、前進を始めたが、その時点ではまだアンダーグラウンドのバンドであった。
Piotr と Chris の間でバンドの将来について話し合いがされた。
Chris は以前に書き溜めておいた曲(予算がなかったため製作できなかった)があり、それを今現実のものとしたかったのだが、制作費が不足していた。
バンドのセールスがよくなかったので 当然ながら巨額の制作費を得ることは難しかった。(レコード会社は多くの企業と同じように、売り上げを出す必要がある)
しかし、Chris は予算なしでどうやってバンドが存続できるか判らなかった。
これでバンドは終わりになっていたかもしれない。 しかし、運は Therion を見放すことはなかった。

Chris はNuclear Blast の責任者である Markus Steiger に電話し、率直に状況を説明した。 「もう、俺がボーカルを取るアルバムは作らない。コーラスが2人、良いスタジオ、2人のプロデューサーともっと多くのスタジオでの作業時間が必要なんだ。もしムリだというなら、バンドは諦めて、今までの結果でよしとすることにするよ」 Chris は少なすぎるツアーに対しても苛立ちを感じていた。 問題は、このレベルではバンドに財政的権利がなく、マネージャーを持つことができないことだ。マネージャーなしで、良いツアーを行うのは難いし、またツアーなしでは、セールスを伸ばすこともできなかった。 セールス面での成功なしでは、十分なアルバム製作費用もなかった。十分な制作費なしては Therion の次のアルバムを完成させることはできなかった。 幸運なことに、Markus Steiger は単なるレコード会社のボスではなく、非常に熱心な音楽ファンでありバンドのファンでもあった。彼は具体的な金額を提示することなく、Chris が作りたかったアルバムを完成させるために Therion が必要なものを与えることに同意した。元 Unanimate dのギタリスト Jonas Mellberg が連れてこられ、Therion は彼らの中で最も重要になるアルバムの製作を開始した。

躍進と大成功への道へ

ドイツのハンブルグにある Impuls Studio でレコーディングは行われ、バンドはテープに、Therion の将来の予算状況とキャリアを永遠に変える曲を録音していた。Chris はこれは彼の大傑作であると思い、その出来上がりに満足していた。それにもかかわらず、彼はそれが売れるかどうか、メタルファンが Therionの製作した実験的なアルバムを受け入れてくれるかどうか疑念を抱いていた。Chris は Piotr に、もしこのアルバムが失敗し、バンドが昔のようにギターをベースとした音楽を、少ない予算で製作をしなくてはならなくなったら、これが Therion 最後のアルバムになるだろうと話をした。Piotr は最後のアルバムになるかもしれないことには同意をしなかった。しかし、彼は Therion以外での将来を考え、歴史の学位を取るために大学で勉強を始めたのだ。

2つの異なる合唱隊(一つはクラシックので、もう一つはロックの)、いくつものキーボードと古典的なサンプル(スタジオの隣の地下鉄駅の名前に因んで冗談をこめて「Barmbek Symphony Orchestra」と呼ばれた)の他に、"Lepaca Kliffoth"で Chris が取ったスタイルのボーカルパートが少し、あとは多様な柔軟性を持ったシンガーDanSwano (Edge of Sanity, Nightingale など)と特徴的な声のPiotr によって演奏された。 アルバムがミキシングされる前に、バンドはヨーロッパで小さなヘッドラインツアーを行った。(クリスのコメントによれば)「俺たちは一文無しで、ミキシングをする前に音楽と少し距離を取る必要があったんだ。個人的には、これが俺たちの最後のツアーになると思っていたし、どのようにして新しい曲を演奏しようかなんて考えたこともなかった。もし、オファーがあったとしてもね。その時、俺は結構滅入っていたんだ。」ツアーの間、Jonas と Lars の 飲酒問題が明らかになり、Jonas は他にも個人的な問題を抱えていた。この問題はスタジオでミキシングしている最中まで続いたので、Chrisは彼らとツアーをすることは、今後なんらかの問題になるのではないかと考えるようになった。このレコーディングによって生まれたのが"Theli"である。そしてこれが1996年にリリースされる前に、Iron Maiden のトリビュートアルバムがスウェーデンでレコーディングされた。 アルコールの過剰摂取とあまりにも多くの感情により、Jonas を一言もいわずにスタジオから出て行ってしまう。(そしてこれはバンドを脱退したことを意味した)そしてまだ完成していない彼が残しっていたパートはChris を非常に悩ませた。

アルバムリリース後、全ての主要な音楽雑誌で非常に良いレビューを受け、売り上げは一ヶ月で "Lepaca Kliffoth" の2倍になり、突然 Amorphis とのツアーの申し込みを受ける。Amorphis はその当時、最も人気のあったメタルバンドの一つである。Chris は非常に喜んだが、驚きと困惑の方が大きかった。そして、少しパニックになっていた.....ツアーにでる?どうやって? まず第一にロックビジネス界で、曲を歌ってくれるような人間がいないことを知っていたし、第二にミュージシャンやシンガーに支払う金が基本的になかった。-レコーディングには当時ではNuclear Blast 史上最高額であった56,000ドイツマルク(約28,000ユーロ)がかかっていた。(バンドはこれをたちの悪い冗談として扱い、レコーディング費用を賄うために車を売り払ったボスの Steiger へアルバムブックレットで謝辞を述べている。)

彼らはそんな多額の費用がかかるとは夢にも思っていなかったので、売り上げがあがっていくのを見たい一方、追加のコストが発生しないように気をつけていた。 - いずれにしろ、サポートアクトとしてツアーにでるには大金が必要になるだろう。Chris は友人とガールフレンドを通して、仕事に十分値すると思えるアマチュア歌手を雇うことができた。ミュージシャンに関しては、Chris は再びTommy に今回はドラマーとして手伝ってくれるよう頼んだ(Piotr が自身の学業に忙しかったためだ)。Necrophobic の Tobias Sidegrdがライブ用のギタリストとして「雇用」された。(Chrisによると彼はアパート代と、ツアー中の無料ビールを手に入れたそうだ。) Kimberly Goss (後の Dimmu Borgir、現 Sinergy)もキーボード奏者(それとバックボーカル)として雇われた。こうしてバンドはようやくツアーにでることができた。Chris 自身が語るように「バンドのサウンドはクソだった。」としても、ツアーは大成功に終わった。「皆、俺達がやってのけたことにさぞかし驚いたと思うよ。」

Lars の飲酒問題は日増しに悪くなり、雇われたソプラノとテナー歌手も「ロックンロール」なツアー生活に慣れることができず問題を抱えていた。Larsが飲みすぎ(どうしようもない演奏をしている以外はほとんど飲んでいた)のためステージ上で倒れると、ソプラノがドラッグをはじめ、テノールの状況はもっと深刻になってきた。Chris はうんざりし、ツアーの終わりには Lars を解雇し、二人の歌手は2度と起用されることがなかった。幸運なことにアルバムセールスは常に上昇し、Therionは初めてプロモーターがブックするに十分値する魅力的なバンドになったのだ。二回目のツアーはプロフェッショナルのソプラノ歌手と Piotr が(勉強を一時中断して)テノールのパートを担当し、1997年に Sentenced、My Dying Bride とそのほかのバンドと行われた。ツアーにはベーシストの Andreas Wahlも一時的にバンドに復帰した。 三回目のヨーロッパツアーが Lake of Tears と Crematory と行われたのに関わらず、バンドに対する需要は増加し、ドイツ以外では単独公演が行われた。このツアーはSarah Jezebel Deva (Cradle of Filth)が同行し、Kim という男がベースを担当した。ツアーは大成功に終わり、その年、バンドは10周年記念アルバム"A'arab Zaraq Lucid Dreaming" ( Theli で使わなかった曲とカバーソングと Chris が映画 "Thegolden embrace" 用に書いたサントラのコンピレーションアルバム)がリリースされた。
風はようやく Therion の方向に吹いてきた。全ては次のアルバムのレコーディングに向けて順調に見えた。マネージャーがバンドと契約をむすび、Nuclear Blast との契約も見直されることになった。(多額の予算が保証されたのだ)。そしてアルバムの売上高は誰をもハッピーにした。ただ一つの問題はバンド自身にあった。バンドは今ではメンバーは Chris一人のみで、あとは雇われたミュージシャン達だった。 Chris はライブミュージシャンでは彼のスタジオでのビジョンを実現できるとは思わなかった。そこでプロのスタジオミュージシャンであるドラマーとベーシストが雇われた。Wolf Simons と an Kazda である。 Tommy が一部ギターパートを協力し、事実上はChrisのソロアルバムでありながら、アルバムは Therion の名前でリリースされた。

このレコーディングは有名な Woodhouse スタジオで行われた。そして、初めて本物の弦楽団が使われた。厳選されたオペラクワイアと共に、Therionは進行形で発展するために更なる一歩を踏み出す必要があった。Sarah が一部のボーカルを担当したように、Martina Hornbache r(現Astner, 元 Dreams Of Sanity ).というオーストリアのシンガーが起用された。 曲はより旋律的になり、プロダクションはクリーンでより多くの人々に聴きやすいものになった。そして"Vovin" と名づけられたアルバムが98年にリリースされた。セールスは Theli の二倍になり、アンダーグランドで何年も苦闘してきたバンドが、一躍、ヨーロッパのメタルシーンで最も話題のバンドになり、Nuclear Blast の中でも一番売れたバンドとなった。

広範囲に渡るヨーロッパのツアーは Moonspell とダブルヘッドライナーで行われた。ツアーは北西はスコットランド、北東はフィンランド、南東はハンガリー、南西はポルトガルの間のあるあゆる場所で2ヶ月間に渡って行われ、たった一日のオフがあったのみであった。 このツアーでは、Tommy がセカンドギターを、Kim が再びベース、Sarah と Martinaがソプラノ、KimのガールフレンドのCynthia がそのディープな声で男性パートを担当した。このとき、ドラマーとして雇われた Sami Karppinen はツアー後、正式メンバーとして迎えられ、ミニアルバム"Crowning of Atlantis" に収録されている何曲かを演奏した。後に数曲ライブトラックがこれに追加され、フルアルバム発売までの中間的リリースとして1999年に発売された。

内向性とバンドとして再び

スウェーデンのベストドラマーのうちの1人である、Sami は腕のよいミュージシャンの間での交友関係を持っていた。これはデスメタルシーンにそのルートを持ち、それ以外のシーンではあまり知っている人間のいなかった Chris にとってはこの上ない助けとなった。

新しいバンドのラインアップを揃える時が訪れ Sami と地元で一緒にジャムっていた Kristian Niemann が参加する。彼はメタルガイでありながら、多くのジャズを経験し、最近またメタルに戻った人物である。その後、彼の弟である Johan がベーシストとしてポジションをオファーされた。数年を得て、ようやくTherionはフルラインアップの本物のバンドとなったのだ。 Chrisは既に "Vovin" に続く次のアルバムのマテリアルを準備していたので、Niemann 兄弟が音楽的に貢献することはなかった。その為"Deggia" も90%はソロアルバムといえるだろう。しかし演奏はパーマネントメンバーによって行われた。バンドはスタジオに入る前にリハーサルを一緒に行うことをしなかったので(これは"Vovin" 以降、一緒にリハーサルする仲間がいなかった Chris の習慣だ)、"Vovin" のようにスタジオミュージシャンが録音したかのように聞こえた。 より複雑な曲とフルオーケストラからなる曲は、以前のアルバムより聞きづらく、Chris は自分のソングライティングが内向的になったと説明した- 彼自身の楽しみの為であり、リスナーの為に書かれた曲は少なかった。

2000年にリリースすると、評価は大部分で肯定的であったが、一部のリスナーには複雑で手に負えないものとなった。それにも関わらず、ファンの間で大反響を呼び、売り上げはTheli の時よりもよく、Chris が昔から好きであったバンド Voivod とサポートアクトの Flowing Tears と共に初のヨーロッパヘッドライナーツアーにでる。この時期から多くの様々なシンガーがライブフォーマンス用に起用され始める。最も有名なのはAnders Engberg (元Lions Share)で、彼のパフォーマンスはオーディエンスに大きな感動を与え、皆が彼の名前を知らなかったために、「いかしたスキンヘッド」として知れ渡るようになった。

"Deggial" の後、Chrisは次のアルバム用に新しい曲を書き始め、七曲の素晴らしい曲を書き上げていた。しかし突如、Therion は北欧の要素と民族音楽に影響を受けたアルバムを作るべきだと強く感じ、既に書き上げた七曲を脇に置き、北欧主題のアルバムを作ることに集中しはじめた。既にサイドプロジェクト用に書き上げられていた二曲があり(Kristian と Johan はこれらがあまりにも良い曲なので Therion で使おうと言っていた)、それらがアルバムのアイディアと合っていたので、Therion 初のコンセプトアルバム-北欧神話の九つの世界をベースにした"Secret Of The Runes"の最初の二曲となった。 残りの曲は非常に速く完成され、二ヶ月かかったのみである。ここから Kristian が、オープニングトラックの "Ginnungagap" の多くの部分を書くなどしてソングライティングの面で貢献するようになった。アルバムは2001年にリリースされる。 このアルバムのレコーディングの為に、Chrisは非常に勇敢な決断を下す- レコーディング予算で Therion 専用のスタジオ ? Modern Art スタジオを建設してしまうのだ。ドラマーのSamiはこの計画の中枢におり、実際に雇われた作業員とともに大部分の建設に携わった。彼は自身のスタジオを持つことで、スタジオの賃貸料や使用時間に悩まされることがなくなると提案したのだ。

このアルバムは Sami をサウンドエンジニアとして製作され、後にフィンランドの Finnvox でミキシングされた。 またこれはクリスが指揮者を使わず、自身でオーケストラとクワイア(今まで以上に複雑なものであったが)を直接指導し、時折、彼らの意見を細かい部分で取り入れようと試みた最初のアルバムでもある。このアルバムは Therion が再び本物のバンドであること証明した。Kristian と Johan の両名も少ないながらもスタジオの建設を手伝い、民主主義的な論議が曲のアレンジと演奏について行われた。多くのクラシックミュージシャンとシンガーらはバイオリニストであるKristian の元ガールフレンドを通じて雇われた。レコーディング中に予想外の問題がおきたときの強いチームワークと、絶対諦めないという意思はTherionの 最も複雑で革新的なアルバムをもたらした。 このアルバムの素晴らしい音楽的な創造と、深みを理解するには一部のリスナーには難しいもので、ヒットすることはなかったが、この壮大なアートは Therion のアルバムの中でも最も好まれる一枚でもある。

アルバムに続いて、メインアクトとしてのヨーロッパツアー( Evergrey とMy Insanity がサポートアクト)と初のラテンアメリカツアーが行われ、信じられないほどの成功を収めた。 この成功にも関わらず、Sami はバンドを脱退し、Moden Art スタジオのサウンドエンジニアと、多くの様々なバンドとのセッションミュージシャンになることに決める。このニュースはバンドにとって大変痛手であったが、Samiは十分に責任を果たし、バンドを去る前に素晴らしい後任を連れてきたのだ。 Richard Evensand である。ツアーの間は多くのコンサートが録音され、それらのいくらかが、Therion 初の二枚組みライブアルバム "Live in Midgard" として発売される。これはTherion 結成15周年を記念して2002年にリリースされた

現在

ツアーが終わったあと、バンドは北欧がコンセプトのアルバム作りへの考えが浮かぶ前に、Chris が作るつもりでいたアルバムに取り組み始めた。Kristianと Johan も作曲するようになり、時間がたってみると棚にあげていた7曲に新曲が加わり膨大な曲数ができあがっていた。そしてChris がアイディアをくわえ始め、アルバムとして集めてみると、55曲も曲があることに気がついたのである。(いくらかはまだ完成していなかったがこれだけの数の曲をどうするか、論議が行われ、3枚分のアルバムに十分な数を持っていることに結論が至った。彼らは彼らの創作意欲に追いつくように、アルバム二枚の同時製作とリリースをすることにした。(この3部作の3枚目を製作するときには55曲以上の曲が出来上がっているだろうレコーディングセッションが Modern Art スタジオで始まった。

ドラム、ベース、ギター、バラライカ、ドムラ(ロシアの民族楽器)、マンドリンなどの楽器と、リードボーカル、オペラの独唱者の録音はここで行われた。 大人数のオーケストラと、ピアノ、ハープシーコードと一部のオペラ独唱者と32人の合唱団のレコーディングはプラハで行われた。パイプオルガンはコペンハーゲンで最も古い教会で録音され、最後にミキシングの前に優秀なプロデューサーLars Nissen と、ハモンドオルガンとメロトロンの追加レコーディングがデンマークの Sun スタジオで行った。 171人の人々が関わり、9ヶ月に渡りレコーディングとミキシングが行われ、ようやく"Lemuria"と "Sirius B"が出来上がり、発売日は2004年5月24日と決まった。 この二枚組みのアルバムは人々に Therionが音楽的なオデッセイを始めたバンドであることを確信させるだろう。そして長年のファンと新しいリスナーの両方を驚かすであろう。

ドラマーの Richard が突然、他のプロジェクトに参加するために、パーマネントメンバーであることを辞める決意をする。Therion は、元々このアルバムのツアー用のセッションドラマーを探していた。しかし、Petter Karlsson という、正式にメンバーとなるにふさわしい人物を探し出した。 特に興味をそそるのは、Petter が素晴らしいソングライターでもあることだ。今後のTherion の作曲面に、おそらく関わる事になるだろう。 Petter は2004年のワールドツアーと、2005年のいくつかのフェスティバルと公演を、バンドと共に行った。 シンガーのMats Leven もライブへ参加する。(バンドは通常、アルバムとは違うシンガーをライブに起用する)それにクラッシクの訓練を受けた、ソプラノの Karin Fjellander 。彼らはツアーの早い段階から、進歩を見せ、バンドと、長年に渡り、何百ものショーを見てきたライブクルーの両方によれば、現在では、彼らはかつてないほどに、素晴らしいサウンドを聞かせてくれているそうだ。これはファンの間でも、共有されている意見のようだ。バンドの今後が、興味を引くものであることは間違いない。

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