Biography 1987 - 1995
バンド結成
Therionは、Christofer Johnsson によって Blitzkreig という名前で1987年に Upplands Vasby(ストックホルム北部郊外)で結成された。Chrisはその当時はベースとボーカルを担当しており、ラインアップは、ドラムのOskar Forss とギターのPeter Hansson で構成された。
Peter とChris はその年の初めに他のグループで(バンドというよりもジャムっていただけと言った方が正しいが)、一緒に活動しており、Chrisは Blitzkrieg が現実のものとなる以前から色々な人々と共に何かをしていた。Oskar は古くからの学校での友人であった。
Blitzkrieg には Slayer と Metallica などの昔の作品からの影響を受けていたが、サウンド自体は Venom と Motorhead
に近かった。1988年はじめにバンドが解散するまで、デモは製作されず、2回ギグを行ったのみなので、多くの人に知られることはなかった。しかし、Chrisはバンドの構想を諦めることはなかった。二、三ヶ月後にはギターに転向し、Celtic Frost のようなバンドの影響を受け始める。そして Peterとともに Megatherion という名前でバンドを再結成する。 その後すぐに Oskar も戻り、バンドのオリジナルラインアップが再びそろった。しかし、新しいバンド名とデスメタル傾向のサウンドでだ。それからしばらくして、彼らの初めてのレコーディングに登場するベーシストが見つかった。ストックホルム地域の若きデスメタルバンド
Dismember を脱退したばかりの Erik Gustafsson である。 バンドの名前が Therion に変えられた直後のことであった。
このラインアップで、バンドは2つのデモを製作した。(最初のものは、Chris がギターに専念したかったので、後の Dismember のヴォーカル
Matti Karki が短期の試みとして参加した) 一枚はミニLPでもう一枚はバンドがアンダーグラウンドで最も有望なデスメタルバンドとして認識されるようになったフルレンスのLP/CDである。
レコーディングアーティストとしての初期
1990年にリリースされた "Time Shall Tell" はレコード盤のみで、地元のレコード店で1,000枚発売された。実はこれは、カセットの代わりにレコート盤として製作された第3のデモであったが、バンドがレーベルから注目されるのには十分なもので、Deaf
Records とアルバム1枚の契約をすることになった。 この結果が1991年にリリースされたデビューアルバム "Of Darkness" である。 このアルバムは80年代に Chris によって書かれた曲のコンピレーションである。 バンドは新しい曲を書いていたが、それを次のリリース用に取っておこうと決めたからだ。
なので、これはバンドのデビューアルバムと共に一つの時代に終わりをつげるものでもあった。
"Of Darkness" のサウンドは、当時は正統とはみなされなかった特定の影響を受けたプログレッシブデスメタルである。
歌詞はNuclear Assault と Napalm Death など80年代後期に知られていたバンドのように政治的なものであった。特に Celtic
Frosts の"Into the Pandemonium" からの影響は強く、Chris はバンドをデスメタルの範囲外へ方向づけたかったのだが、その当時は5年後どうなっているかなどは夢にも思わなかったのである。
"Of Darkness" ではキーボードをサウンドに取り込むなどの小さな試みが行われた。これに女性のボーカルと男性のクリアボイスが採用されたのが大きな変化の一つである。
この新しいサウンドの代表的な曲は非常に高い評価を受け、後のライブでも時折演奏される"Symphony of the dead"
である。 Deaf Records との契約はアルバム一枚のみであり、バンドとレーベルの関係が決して良いものでもなかったので、Therion
は Active Records と契約することになった。
レコーディングが始まる前に、ベースの Erik がバンドを去る(彼の祖国アメリカへ帰国)。Therion は2ndアルバム"Beyond
Sanctorum"((1992)を Peter と Chris がベースを補うトリオとして製作することにした。そして叙情詩的だったコンセプトはその方向をオカルトへと変えたのだ。このアルバムは非常に良いレビューを受け、バンドは初めてのギグをベルギーやオランダなどを中心とした、ヨーロッパでオフォーされる。 その頃2人目の子供が生まれることになった
Oskar は、安い給料のミュージシャンでいることよりも、家族の大黒柱としての責任を選択することになる。一方 Peter も健康上と音楽的な理由でバンドを辞めることになった。その為、ショーは、ドラムにPiotr Wawrzeniuk (彼は Chris の別プロジェクトバンド Carbonized の仲間である)、ベースに AndreasWahl、ギターに Magnus Barthelsson (Chris の学生時代の友人で、Upplands Vasby の別バンドで活動していた)を迎えた新しいラインアップで行われた。
奔放な実験時代
結成当初からのバンドの仲間が去った後、Chris は Therion の名前でバンドを続けていくか確信がもてなくなった。 特に、彼が音楽的な実験を経験し、もっとそれ以上のものを求めていたからだ。既に、何故バンドが革新的で新しいアイディアである
"Beyond Sanctorum"をリリースする際に、名前を変えなかったのか尋ねる人も一部にいた。もしバンドが再び大きなステップを踏み、それが今回よりも大きいものだったら人々は何て言うだろうか?
Chris は彼が依然としてメインソングライターであり、最初の二枚のアルバムからの曲を演奏し続けるということで、バンドの名前をそのまま保つことに決めた。名前を変えることは実用的でなかったからだ。
メンバーが集められ、非常に実験的なアルバムが作られた。
1993年リリースの "Symphony Masses: Ho Drakon Ho Megas" はその努力の結果である。このアルバムがデスメタルバンドとして分類されているバンドにとって、どんなにワイルドなものだったかを理解するには、当時、またはそれ以前にリリースされた何十枚物の他のデスメタルアルバムを聞く必要があるだろう。
前回のアルバムでは、ほんの少しの試みであったキーボードとペルシャ音楽の導入が、ここでは大胆に行われ、更にジャズ的な要素、インダストリアルミュージックや宗教的な旋律(今で言うゴシック)と
Iron Maiden やJudas Priest などの80年代のへヴィメタルサウンドが用いられた。 Active Records は Therion
の活動を縮小することにし、次のアルバムのリリースもなかった。その為Therion は新しいレーベル Megarock Records へ移籍する。 レビューはたいてい良いものであったが、何人かのミュージックジャーナリストはバンドの行っていることに興味を失いはじめていた。
Therion はドイツで GraveとMassacar のサポートアクトとして、ツアーに参加、またいくらかの単独公演を行うなどしてアルバムのプロモーションを行った。この時点で、非常にコアなTherionファンを生み出していたが、セールスは良いとはいえず、Therion はアンダーグランドのエクストリーム音楽バンドとして知られるようになった。
やることはいっぱいあるのに予算がない。自宅で仕事をすることによって、生活費を賄うことはよくある事だが、ツアーに出るために仕事をある期間休まざるをえないことが
Magnus と Andreas がTherion を諦める原因となった。Fredrik Isaksson がベースとして加わり、Therion
は3人となった。 Chris は数ヶ月のオフを取り、スイスのバンド Messiah にボーカルとして参加した。戻ってみると、Nuclear Blast
からの契約話がきていた。Megarock Record sはTherion に対し、できることは全て行い、個人的な関係も良かったがバンドを十分にプロモーションする資金が不足していた。その為、彼らは音楽業界では通常ありえないことをした。契約がまだ残っているに関わらず、いかなる金銭的権利を主張することなくTherionを手放したのである。彼らはバンドにとっての最善の結果を望み、Nclear Blast との契約を勧めた。(将来バンドが巨額な予算を必要とするのに気がついたのかもしれない)
"Lepaca Kliffoth"(1995)はソプラノとバス-バリトン歌手、さらなるキーボードとペルシャ音楽の影響および
"Symphony Masses" で Chris が試みた実験的なボーカルを取り入れた、もう一歩踏み出したアルバムである。このアルバムは完全に新しい歌い方(ハードコアに近いともいわれる)を用い、彼らの元々のスタイルであるデスメタルの残存を拭い去る。タイトルトラックにみられるような、分類するのも難しい影響も若干あった。Therion
は音楽的な状況が窮屈になり始めた。
Chris はインスピレーションを Klaatu, Pavlov’s Dog, Eloy, Pink Floyd, Mandala Band
などの70年代のプログレッシブバンドやシンフォニックバンドに求めるようになった。 Annihilator とのツアーがドイツで行われ、何公演かのヘッドライナーツアーがアルゼンチンとチリで行われた(Chris
の友人である Tommy がセカンドギターとして参加した)。Fredrik は個人的な理由で Annihilator とのツアーに参加することができず、Entombedから Lars Rosenberg がセッションベーシストとして参加した。最後にはPiotr が Fredrik との個人的な問題を打ち明け、Chris
はFredrik を解雇することに同意した。Lars はちょうど Entombed を解雇されたところだったので、正式メンバーとしてTherion
に参加することになった。
バンドは訪れる大成功へ向かい、前進を始めたが、その時点ではまだアンダーグラウンドのバンドであった。
Piotr と Chris の間でバンドの将来について話し合いがされた。
Chris は以前に書き溜めておいた曲(予算がなかったため製作できなかった)があり、それを今現実のものとしたかったのだが、制作費が不足していた。
バンドのセールスがよくなかったので 当然ながら巨額の制作費を得ることは難しかった。(レコード会社は多くの企業と同じように、売り上げを出す必要がある)
しかし、Chris は予算なしでどうやってバンドが存続できるか判らなかった。
これでバンドは終わりになっていたかもしれない。 しかし、運は Therion を見放すことはなかった。
Chris はNuclear Blast の責任者である Markus Steiger に電話し、率直に状況を説明した。 「もう、俺がボーカルを取るアルバムは作らない。コーラスが2人、良いスタジオ、2人のプロデューサーともっと多くのスタジオでの作業時間が必要なんだ。もしムリだというなら、バンドは諦めて、今までの結果でよしとすることにするよ」
Chris は少なすぎるツアーに対しても苛立ちを感じていた。 問題は、このレベルではバンドに財政的権利がなく、マネージャーを持つことができないことだ。マネージャーなしで、良いツアーを行うのは難いし、またツアーなしでは、セールスを伸ばすこともできなかった。 セールス面での成功なしでは、十分なアルバム製作費用もなかった。十分な制作費なしては
Therion の次のアルバムを完成させることはできなかった。 幸運なことに、Markus Steiger は単なるレコード会社のボスではなく、非常に熱心な音楽ファンでありバンドのファンでもあった。彼は具体的な金額を提示することなく、Chris
が作りたかったアルバムを完成させるために Therion が必要なものを与えることに同意した。元 Unanimate dのギタリスト Jonas
Mellberg が連れてこられ、Therion は彼らの中で最も重要になるアルバムの製作を開始した。
